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HOLY GOLF BUSHIDO
-  神 聖 ゴ ル フ 武 士 道  -
新和魂洋才のすすめ
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
第11章 克己と謙遜

無表情な日本人

新渡戸は著書武士道で「武士道は一方において不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないと言う礼を重んじた。この二つがひとつになってストイックな心を育み、ついには国民全体が禁欲主義者的な性格を形成した。」というが、日本人が感情を余り表に出さないのは思想的なものか習慣的なものか、或いは民族的な特性かよく分からない。しかし実際に外国人と比較したときにナイーブであることや、自分の意見を言わないことでは定評がある。外国セミナーや外国人講師による講演会などで日本人受講者がほとんど質問をしないために、外国人講師は自分の講義に興味を持ってもらえなかったのか、理解できなかったのか当惑することがよくある。日本人が外国人講師に質問や意見を言わないのは、言葉のせいかと思いきや、日本人講師に対しても同じ傾向が見られるので、余り気にすることはない。この傾向は時代が変わっても社会が変わっても変わらないところを見ると、どうやら武士道とは余り関係のない民族的な特性のように思われる。日本人が大言壮語を良しとせず、控えめな発言を好んだり、功績を独り占めにせず必ず「お蔭さまで」と表現するのは教育によるところも大きいかもしれない。必ずしも武士道によるものではなく日本人全体に見られる傾向で、反対に傲慢不遜の大法螺吹きを見つけるほうが難しい。口下手も日本人固有の特性で、日本の政治家で欧米の政治家のような演説ができる者は皆無である。「武士道教育による不平不満を漏らさぬ忍耐と不屈の精神」などと虚勢を張らず、「単なる勉強不足か能力不足」と正直に認めるほうが遥かに武士道精神に叶って清清しい。
東洋には余り雄弁を好まない思想もあって、論語に「巧言令色鮮仁」((こうげんれいしょくすくなしじん)などと口の巧い人に信用できる人が少ないと言い、「雄弁は銀、沈黙は金」という諺もあるくらいだ。日本人が自分の意思をはっきり言わないのは、良くも悪くも日本人の特性に近いアイデンティティのように思えてならない。米国エアラインのスチュワーデスに「Yes or No?」と畳み掛けられてオタオタした経験があるのは、私一人ではないはずだ。本心からイエスでもノーでもないことが多いのだ。日本人が応えない時は、ほぼノーに近いことくらい日本人なら分かるのにと思うのだが、分かっていれば彼女らも畳み掛けたりしないだろうに、とまた思い直す。そのような訳で数秒間の沈黙になるのだが、「Tea or Coffee?」といきなり問われて「それほど飲みたくないが、折角そう言ってくれたのを断るのも悪いし、できれば緑茶の方が有り難いが緑茶はあるのか、無ければ後でも構わないが」などと僅か二、三秒の間に思考は忙しいのだ。三秒経って意思表示できないと畳み掛けられるから米国エアラインには乗りたくない、と考えている日本人は案外多いのではないか。このような私たちの特性は決して新渡戸が言うような、忍耐と不屈の精神が生んだ武士道精神に基づく美徳などという大袈裟なものではない。「えーと、えーと。はイランちゅうに!」という英会話学校のコマーシャルか何かを聞いた記憶があるが、この「えーと、えーと」の二、三秒間こそ、私たち日本人にとって貴重な「惻隠タイム」と理解して欲しいのだ。ここで自分の意思を表示して周りは迷惑しないか、相手は何を期待しているのか、周りの人はどうしたいのか、などさまざまな立場から配慮することを惻隠というならば、日本人の意思表示が遅かったり不明瞭だったりするのは、まさにそのような理由によるのだから。

男らしさ

今はどうか分からないが、昔はよく男なら「黙ってやれ」「言い訳はするな」「泣きごと言うな」などと叱られた。「不言実行」などと習字まで書かされた。そのうえ「ハイ!と言って返事をしろ」と躾けられていたから、外国でも「Yes!」と咄嗟に答えて大失敗をする。「イエス」と言ってしまった以上、失敗しても言い訳はしたくない。私の親しいアメリカ人たちは「そういう日本人が好きだ」といってくれるから助かるが、本当は自分でも何とかしたいと思う日本人固有の習性というか特性というか。子供の頃は怪我をしても「男の子」、手術台に縛られて泣き出しても「男の子」、同情を買おうとすればなおさら「男の子」といって叱咤激励される。超ロングラン寅さんシリーズ『男はつらいよ』という映画がヒットする土壌は充分にあったが、土壌はそう簡単に変わるものではないから、今もきっと男の子につらい社会なのだろう。序章で述べたように、本来男の子は周囲の女性たちに頼りにされたらひとたまりもない存在だ。戦争に負けたことがいけなかったのか、戦後は女性が男性を余り頼らなくなったし、男女共学や男女同権が男と女の関係を同等に考えるようになった。男が無理しなくても女が助けてくれるようになった。男の権利を振り回せば訴えられるが、女の権利を振り回しても訴えられることはない。女性が堂々と生きている割に、男性がこそこそと生きる世の中になったように思えるが、果たしてそれが良いのか悪いのか、それもよく分からない。ただ言えることは、武士道精神に男女の差はなく、男らしさも女らしさも、それぞれの立場で発揮されるものだから、あえて男、男と強調することはないのかもしれない。北京オリンピックで活躍したソフトボールの上野選手などはまさにニッポン男児として世界に自慢したい女子だ。柔道の谷選手、レスリングの吉田選手はじめサムライとして自慢したい女性は実に多い。彼女らは決して女らしさを失わず、それでいてサムライなのだ。彼女たちに共通する武士道精神は、長く苦しい練習や日本を代表する重い責任を克服してきた克己心と、世界一の名誉を自分一人のものにしない謙虚な心によって支えられた、まさにいぶし銀の光沢と思われる。彼女たちを育てた家庭環境と学校教育、いずれも戦後の教育環境に変わりはない。武士道精神というDNAをもつ遺伝子とそれを育む土壌環境こそが、時代社会を超えてサムライを育てるのではないかと思えてくるのである。ならばゴルフという環境の中には、もっと武士道精神が育っても良かったはずだと考えるのだが、そうはならなかった。

ゴルフの環境

ゴルフそのものには、武士道精神を育む要因が数多く包含されていることはよく分かるが、一体何ゆえに、日本のゴルフ土壌から武士道精神が消滅してしまったか不思議でならない。前述したとおり、私が師と仰ぐ浅見緑蔵プロや中部銀次郎は、立派なサムライゴルファーだったことを思うと、土壌改良すれば必ず日本のゴルフ環境に武士道精神は育つと確信するのである。土壌改良する前に、何が武士道精神を蝕む要因になったかを考える方が早いかもしれないが、思い当たるふしはいくつかある。日本のゴルフ環境は昭和30年代中頃までは、いやらしいほど封建的な身分階層制度を残していた。なぜならば敗戦から僅か10年余では、ゴルフ界の組織構成も各クラブの会員構成もほとんど変わりようがなかったから、戦前の体質をそのまま残していたと考えられる。協会役員やクラブ役員、クラブキャプテンや支配人の傲慢不遜とも思える態度は、一般社会とは明らかに時代逆行とも思える姿であったが、この当時は未だ家庭環境や一般社会の随所にこのような姿が残っていたから、さほど気にも留めなかったのであろう。昭和40年代に入って戦後育ちの経済人や経済力を持った一般社会人がゴルフを始めるようになり、クラブメンバーという社会的身分が金で買えるという環境が整ってきてから、ゴルフの環境は変わり始めた。特に預託会員権に支えられたクラブ会員制度や、接待ゴルフに支えられた会員紹介ビジター制度は、日本固有のシステムとしてゴルフの環境を構築していった。戦後暫らく、占領軍による押し付けの民主主義に戸惑いながらも、特権階級の楽しみであったゴルフに触れてみると、そのおもしろさは無類であり、是非とも特権階級の仲間入りをしたいと思うようになった。帝国観光をはじめとする新興ゴルフ事業会社は、この大衆の目覚めに目をつけ特権階級が金で買える制度を考案したが、今思えば人間の心理を巧みについた見事な商法といえる。「ゴルフは紳士のスポーツ」とか「エクゼクティブの高級会員制クラブ」のような美辞麗句に乗せられて、無理してでもゴルフ会員権を手に入れようとした。そのうえ会員権は将来必ず値上がりするという誘惑まで付いたから、私たちはものの見事に乗せられていったのである。武士という地位身分は金で買えても、武士道という魂や精神は金で買うことはできない。ゴルファーに求められる礼節や品格は、決して金で買える性格のものではないことくらい分かっていたはずなのに、一体どうしたことだろう。日本のゴルフは品性や品格を置き忘れたまま量的成長を遂げ、世界第二のゴルフ大国に成長してしまった。日本のゴルフ環境はあらためて急速な変化を求められているが、ひょっとすると日本の伝統精神武士道がこの国難を救ってくれるかもしれない。

克己とは

克己とは己に打ち勝つことをいうが、己とは何かといえば「不平不満を言う自分」、「挫けそうになる自分」、「卑怯な手段に訴えそうな自分」など好ましくない自分を指す。新渡戸の言う武士道精神はこのような弱く卑怯な心を厳しく戒め、武士にはあってならない姿であるという。武士はやせ我慢をしてでも己を強く戒め、時によってはストイックになってでも克己を育てなければならないという。新渡戸はこのようにいうが、武士道精神を養うために、不屈の精神を養うために痩せ我慢をしてまで忍耐したとして、果たしてそれで品格を備えた高邁な精神が育つのだろうか。神聖なる魂にはなりえないのではないかという疑問が残る。先にも触れたように新渡戸稲造は武士階級のプロテスタントであるから、ストイックといっても決して卑屈な心や、屈折した精神を指している訳ではないことを知っている。試練を神の祝福と受け止め、忍耐を神への忠誠と受け止める姿勢こそ、新渡戸が求める自制の心であって、それは無理した心、痩せ我慢の姿勢とは根本的に異なっている。克己即ち己に打ち勝つとは、もっと積極的な姿勢であり、高邁な理念に基づかなければならない。古くは山中鹿之助が「天よ、願わくば我に七難八苦を与え給え」と言ったように、自分をより強くするために、魂を鍛えるために積極的に困難に挑戦する、更なる向上へのトレーニングプログラムを求めることを指している。 ゴルフは天に祈らなくとも、次から次へと理不尽な試練を与えてくれる不思議なスポーツゲームだ。試練に耐え切れず、発狂したように怒り狂うゴルファーを時たま見かけるが、ゴルファーなら誰もがそれは決して他人事ではないことを承知している。ゴルフでは決して他人の手を借りてはならないことも、鉄則のひとつになっている。これは痩せ我慢でもなければ高邁な精神でもなく、単なるルールに過ぎない。谷底に転落した球も、林の奥深く入った球も、池にはまった球も、全ては己のなせる業と諦めて、自分自身の責任で処置しなければならない。愚痴や不満は誰も聞いてはくれないが、言えば返って相手を喜ばすか自分が一層惨めになるだけの話で、この悔しい心境を誰が理解してくれると言うのか。このようにゴルフでは、不運や失敗を全て自己責任として受け止め、他人を不愉快にせぬよう配慮しつつ、プレーすることが求められる。ここにゴルフマインドと言われるゴルフの基本精神があり、克己と謙遜に支えられる神聖なる魂の領域がある。