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HOLY GOLF BUSHIDO
-  神 聖 ゴ ル フ 武 士 道  -
新和魂洋才のすすめ
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
第10章 教育と人格

道徳と武士道

新渡戸稲造は「武士道第一版序」で次のように述べている。『約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過ごしたが、ある日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と繰り返し言ったその声を私は容易に忘れ得ない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できなかった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは、学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見出したのである。しかして封建制度および武士道を解することなくば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であることを知った』。このように書かれたのは1899年のことである。

戦後教育

それから半世紀経った1945年、日本は太平洋戦争に敗れて無条件降伏し、連合軍に占領された。連合軍総司令官マッカーサー元帥は天皇制の存続を認めたものの、絶対天皇制は改めさせ、象徴天皇による立憲君主制に変えさせた。また憲法で宗教と教育の自由は保障したものの、教育に過激思想が介入することを極度に恐れ、武士道を右翼思想の根源とみなし右翼思想も左翼思想も排除しようとした結果、新渡戸が言うように現代日本の道徳観念は事実上封印されることになったと解すべきであろう。百年余経過して、新渡戸の言葉はひしひしと私たちの心に訴えかけてくる。宗教なし!武士道なし!でどうやって道徳教育を授けるのか。精神の教育なし、魂の教育なし、でどうやって人格形成するのか。私たち日本人は精神の根源と考えられる魂を、戦争と一緒に放棄してしまったのか。平和憲法の名の下に、武士道という日本の精神を封印してしまったのか。家庭も教育現場も社会も倫理道徳の規範を見失って茫然自失しているではないか。
新渡戸が100年以上前から懸念していたことが、今現実となって私たちの前に大きな問題となって横たわっている。戦後、連合軍の占領政策によって民主主義という名の下に思想の自由が保障され、無信仰が偉大な市民権を得た結果、かえって道徳観念は封印され精神基盤が崩壊しかかっているのだ。私たちの魂すなわちSoul of Japanは、武士道という精神基盤に根を張って成長したのであるが、その温床となったのは家庭であり封建社会であったと新渡戸は分析していた。終戦後数年間は敗戦の痕跡や無念の想いがあちこちに散在し、武士道復活の温床は未だ健在であった。だからこそ、1950年朝鮮戦争が勃発するや戦争特需によって経済復興の機会を得て、臥薪嘗胆どころか盆と正月がいっぺんに来たような騒ぎとなってしまったのである。世界大戦に敗れたとはいえ、鍛えられた精神力と技術力は簡単に消滅することなく、日本史上最大の国難に当り、経済復興を大義として「死に狂い」の形相を呈したのである。武士道は町人道に姿を変え、忽ち戦勝国をキャッチアップして世界の経済大国に復帰してしまったものの、天下泰平・五穀豊穣の昭和元禄の世に、武士道精神はすっかり倦んでしまったかに見える。しかし天保の大飢饉を思わせる平成大不況は、じわじわと多数の難民を生み人々の心を荒廃させているから、やがて私たちの民族の血に流れる武士道DNAは必ずや町人道の仮面を棄てて本来の姿を現し、正義の刃を振りかざすはずである。いま私たちの周りには武士道を育む教育基盤がないが、目を凝らしてみると路傍のあちこちに、青々とした新芽が遠慮がちに顔を覗かせているのが分かる。日本の魂「武士道」はいつの時代にあっても天下泰平の世では、出番を待つ控え役者のように静かにしているのが常で、国難が襲ったり世が乱れたとき武士道は雷神の如く現れ、正義の刃を振りかざしてきたのである。現代の日本社会に、そのような芽を育む環境基盤が残されているだろうか。青少年や私たち大人の心に、武士道や道徳心が芽生えたとして、それをどこで育てれば良いのか。人格は自分自身の責任で磨くものか、家庭環境で育てるものか、社会教育で訓練するものか。いずれも大切ではあるが、本来なら十数年に及ぶ学校教育の影響力は計り知れぬ重さがある。自分自身を振り返ったとき、良くも悪くも今日ある人格は大部分が学校教育で育まれたものであり、その後社会に出て経験や読書あるいは聖書や教会を通して修正されたものである。自分自身が持って生まれたものなんか、動物本能以外とるに足るものはない。その意味でアリストテレスのいうように、人間が社会的動物であることは実に良く分かるし、人格形成にとって教育が如何に大切か理解できる。

ゴルフの人格形成

ゴルフではプレーする前に先ずエチケットとルールを教えられ、自分自身でジャッジするよう指導される。そのうえミスジャッジや不正は自らの人格を問われるから、くれぐれも慎重に行うよう申し渡される。否、以前は申し渡されたものだ。だから人格まで問われては大変と、事前学習に余念がないばかりか「ルールが分からないときは自分が不利になるよう処置せよ」とか、「いくつ打ったか分からなくなったら多めに申告せよ」と勧告されていた。そのうえ「ノータッチを励行せよ」「エチケットルールを守れ」「完全ホールアウトを履行せよ」「ハーフ2時間以内でまわれ」と矢継ぎ早に警告され、それでも「はい、はい」といって懸命に言うことを聞いたのは、何を勧告されようが警告されようが、とにかくゴルフが楽しくて楽しくて仕方がなく、仲間はずれにされたくなかったからである。倫理道徳だの人格形成と聞けば青少年どころか大人でもうんざりするが、そんな教育テーマに対して年齢に係わりなく、自発的モチベーションを引き起こすゴルフの魅力は実にすごい。現にボビー・ジョーンズは初めて全英オープンに出場したとき、未だトゲだらけの青年だったが、その時の自分を深く反省し帰国後ゴルフによって自発的に人格形成を図っている。このようにゴルフには大きな教育効果が内在されており、ゴルフの魅力を使って難しいとされる倫理道徳教育を行なったところに、イギリス固有の歴史と伝統を感じるのである。日本では道徳教育といっただけで、戦後文部省や教育委員会が二の足を踏み、日教組が気の狂ったのように反対したのは、戦前の軍国教育に回帰することを恐れたからであろう。しかし今思えば、倫理道徳教育や人格形成は教育の根本目的であって、先ず何を差し置いても真っ先に掲げなければならない徳目だった筈である。未曾有の敗戦という第四の国難にあたって、武士道は町人道に姿を変えて経済復興を達成したものの、肝心の教育徳目から魂や精神の領域をはずしてしまったために、下手をすると国家民族の存亡にかかわる大国難を招きかねないことになってしまった。序章で触れたように明治維新後の教育では誰もが四民平等の地位を得て、福沢諭吉「学問のすすめ」や新渡戸稲造「武士道」に支えられながら知育・徳育を受けて人格形成を図り、また柔剣道などの「伝統武道」を導入した体育によって精神鍛錬を図ってきた。しかし戦後教育では進学率、就職率、出世率、有名度などが徳目として掲げられるようになり、本来あるべき人格形成や精神鍛錬は忘れ去られたかに見えるのはどうしたことか。欧米プロテスタント諸国がキリスト教と聖書を徳育に、神聖ゴルフを体育に導入して人格形成を図ってきたのに較べ、日本の徳育は何に依拠して行われたか問われる。知る限り武士道も聖書もゴルフも、正式に教育現場に導入された話は聞いたことがない。文部科学省や教育委員会も未だ検討したことすらないのではないか。
しかし考えてみれば、本来大切な教育を全て国家の行政管理責任にしてしまったのは国民の無知と怠慢以外の何ものでもない。反省すべきは私たち国民自身であって、政治や行政の責任ではないはずだ。国民が真に教育改革を望むなら、選挙で政治を変えればよいではないか。それでも変わらなければ100万人デモを繰り出して政府を転覆すればよいではないか。現に葉隠武士たちは、幕末に怒りの討幕運動を起こして無血開城・大政奉還を実現しただけでなく、世界に冠たる四民平等教育を実現しているではないか。私たち日本民族にはそれだけの知性と教養が備わっている。武士道も神聖ゴルフも、気が付けばいずれも私たちの身近にあって、今日からでも教育に導入することができる。何でもかんでも政治や行政の責任にする風潮は、かえって国を危うくすることになりはしないか。

自由な教育

私たちは憲法によって教育や信仰の自由が保障されている。武士道を学び神聖ゴルフを信仰するに何の遠慮が必要か。私たちが神聖ゴルフ武士道によって高邁な精神を養い、世界に通ずる人格を形成するのに許認可を得たり、補助金を貰う必要は全くない。ましてや事業の国家認定を受け、資格の認証を受けるが如きは破廉恥極まりない。武士道にしろ神聖ゴルフにしろ、時の政治や権力が振興して普及発展したことなど断じてありえない。国家が形成される以前から、人々の自由意志によって嗜まれ身に付けられてきたものであるからこそ、時代が変わり社会が変わっても脈々と生き続け、人々の人格や魂を形成してきたのである。これからも万一政治や権力が圧力を加えることがあろうとも、武士道も神聖ゴルフも私たちの自由な心に生き続けることは間違いない。そして心の内部から私たちの魂を揺り動かし、私たちの人格を形成して、ときには時代を変え社会を変える大きな力となりうるであろう。