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HOLY GOLF BUSHIDO
-  神 聖 ゴ ル フ 武 士 道  -
新和魂洋才のすすめ
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
序 章 21世紀の和魂洋才

グローバル社会の生き方

21世紀が始まり地球環境は激変しつつある。国境国籍というポリシー障壁が希薄になり、時間空間というコスト障害が激減した。ほとんど代償を伴わずに、世界中の情報を一瞬にして集め、地球の裏側の出来事をリアルタイムで観察できるとは一体誰が予測しえたろう。21世紀はグローバル社会、サイバーワールドとして幕開けしたが、早くもグローバリゼーションや金融資本主義に破綻が見えてきた。20世紀の世界をリードし、アジア・アフリカの二大陸を軍事支配してきた米国は、いま黒人大統領を選出して大きく方向転換を図ろうとしている。雑多な人種と文化を包含したまま、個人の自由と権利を保障するアメリカ合衆国の国家理念は、人間の知恵や理性を超越して「神の信託」なくしてありえない。「We trust in God」を国民の共通理念に幾多の危機を乗り越えてきた米国だが、バラク・オバマは今またチェンジを唱えて国民大衆を感動させ、多くの支持を得て再建の道を進もうとしている。アメリカの基本精神プロテスタンティズムは復活するか。
ならば私たちひとりひとりは激変する環境の中でどう対処すればよいのか。日本人として、東洋人として、国際人としてどうすれば光り輝くかを考えなければならない。今まで家庭環境や学校教育で教えてもらえなかったことを新たに学ばなければならないが、21世紀は始まったばかりの未体験ゾーンだから、余程しっかりした基盤をもたなければ激変する社会に耐えられない。洋の東西、人種国籍、年齢性別に係わりなくひとりの人間として世界で信頼される共通の価値観や原理原則を求めていくと、意外にもそこに古く忘れかけた知恵が浮かび上がってくる。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言い「温故知新」(おんこちしん)とも言うが、古きを訪ねればそこに新しい生き方が見えてくる。日本の伝統精神<武士道>に英国の伝統文化<ゴルフ>を掛け合せると、そこに素晴らしい<ハイブリッド人種>が誕生しないか。両者に共通するDNAとして-プロテスタンティズム-という近代文明や近代社会を創造した遺伝子が発見された。「新和魂洋才」(しんわこんようさい)これぞ21世紀の生き方と確信するに値しないか。グローバル社会に打って出ようとする若者ならイヤ年寄ですら、武士道を学び神聖ゴルフを身につけるべきだ、と思うにはそれなりの理由がある。武士道精神と神聖ゴルフゲームについてあらためて考えてみたい。

日本人のアイデンティティ

私たちは、和魂洋才という言葉に日本人としての理想像や在るべき姿を見出そうとする。しかし現実にはどのような精神を和魂(わこん)というのか、どのような才能を洋才(ようさい)というのか誠に分かりづらい。そもそも日本人のアイデンティティを問われてもよく分からない。私自身、妻も娘も人種としておそらく日本人なのだが「ほんとに日本人か?」と思うことすらある。私の描いている日本人像と、妻や娘が描いている日本人像に相当ずれがあることも事実だ。それは性格の違いか、思考の違いか、はたまた嗜好の違いか毎日一緒に暮らしていて分からない。価値観の違いではないと思うのは、私の家族は全員キリスト洗礼を受けたプロテスタントで、むしろ価値観が違っては困る間柄なのだが、日々とくに争いも確執もなく、どちらかといえば仲の良い部類に入る家族でありながら、日本人という因子で括ろうとするとなぜか思考回路の作動が鈍る。私の両親や伯父叔母たち世代と、娘や甥姪たち世代とを比較したとき、顔立ちや性格では「よく似てるなぁ」と思うことはあるものの彼らから日本人としての共通因子を割り出せといわれたら、私の思考回路は完全に停止する。三世代にまたがって眺めてみても、日本人という共通因子は見出せない。逆に三世代の差異を述べよといわれたら、いくらでも語れるのはどうしたことか。
さらに驚くことに、周りの日本人から日本人らしい人を選べといわれるより、外国人の中から日本人らしい人を選べといわれるほうが易しいのだ。台湾人、中国人、韓国人、アメリカ人、ドイツ人、イギリス人、フランス人いくらでもいる。日本人を日本人として観察したことがないせいか、母集団が多すぎて統計にならないか、とにかく私には分からない。とはいえ外国人が観察した日本人論を読むと噴出したくなるほど日本人の共通因子を抽出して特徴を表現しているのは妙だ。ホテルの売店にある外国人向けガイドブックを立ち読みすれば、フランス人が書いた日本人像なんぞ、憎らしいほど的確に特徴をつかんでおり、見苦しいイラスト描写まで添えてあるから悔しくて夜眠れなくなりそうだ。古くはラフカディオ・ハーン、アーネスト・サトウ、ルース・ベネディクトらの観察からも、充分納得いく日本人像を見出すことができる。それでいて、もう一度自分で周りを見渡すとまた日本人とは何か、全く分からなくなるのは一体なぜか。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、中国、ロシアに行って同じ質問をすれば、間違いなく彼らからも「自分たちのことはわからない」という回答が返ってくるかも知れない。
外国人が日本の歴史を辿ったり、日本人の行動様式を追って特異な点をプロットしていくと明らかに他の民族や国民と異なる点が浮き彫りになってくるのだろうが、私たちが日常生活で無意識にあるいは習慣的に行っていることから、国際的に特異な点を挙げよといわれても分かるはずがない。異国人から指摘されて初めて分かるのだ。外国人は新幹線に乗っても日本の先端技術には驚かない。彼らが一応に驚くのは発車時刻と到着時刻の正確さで、秋葉原で買った時計を発車時刻に合わせておいて、ドアーが閉まる瞬間にネジを押してスタートさせる。そして終着駅についてドアーが開く瞬間の時刻をチェックし、運行時間の正確さと時計の正確さをダブルチェックして納得する。私たちからすれば「当たり前じゃない」と思うが彼らは「これが日本だ」という。
商談や会議が始まる前に自己紹介するときも、日本人は関係者全員が片手に名刺入れを持って整列する。一人ずつ順番に前に進み出て、一礼したあと名刺入れに名刺を載せて拝礼しながら両手で差し出す。握手をしたあと、もう一度一礼して後ずさりし元の位置に戻る。次の人も同じことをする。5人いても6人いても誰ひとり手を抜くことはない。全員が終わるまで私語もせず整列している。後の人ほどお辞儀の角度は深くなる。最初の人は15度礼で中間は30度礼。最後の人は45度礼になる。握手しながら45度礼をすると手に接吻しているようにも見える。東京でも大阪でも北京でもニューヨークでもロンドンでもホテルのロビーでもレストランでも日本人ならほとんどが、そのようにしている。別れるときも同じセレモニーを行う。中座するものは進み出て、謝罪の言葉を述べながら単独セレモニーを行い、会釈をしながら恐縮して立ち去る。「おかしい?」と聞くと「それが日本人の作法だろ?」といって外国人は決してそれを笑わない。彼らにしてみれば序列がすぐ分かって便利なのかもしれないし、後で神妙な顔をしてお辞儀の練習をしているところを見ると、それが日本人の美徳と思っているのかもしれない。このように日本人のアイデンティティといっても、私たち自身にはなかなか分かりづらい。まして良いか悪いか、国際社会で通用するかしないか、となると全く分からない。

日本人の魂

表面的に観察してよく分からない日本人について、さらにその魂を語れといわれたらもっと分からない。私の毎日の散歩道に皇居、千鳥が淵、靖国神社があるから視覚感覚的にはイヤというほど日本や日本人像を理解できるのだが、日本人の魂を語れといわれたら素直に「分かりません」と謝る。ましてや、最近の日本人の魂について聞かれたら「皆目分かりません」と答えざるを得ない。教会のドイツ人宣教師に「日本人はおもしろいよ」といわれたことのひとつに、日本人は暮になると、なんの疑問も持たずに教会でクリスマスを祝い、寺に行って除夜の鐘を突き、翌朝は神社で拍手(かしわで)を打つ。言われるまでもなく確かにクリスマスを祝うについてはカソリック教会であろうが、プロテスタント集会であろうが、ナイトクラブであろうがクリスマスツリーが飾ってあれば処を選ばない。寺も浄土、真言、日蓮いずれも宗派は問わず、簡便最寄りの寺で結構。神社にいたっては天照大神も平将門も乃木将軍も、狐も狸もいっしょくたである。日本人の魂はどこにあるか聞くほうが野暮というものだろう。その中で暮らしている私たちに分かるわけがない。
昔はよく「ニッポン男児」、「ヤマト魂」などと泣きそうな男の子が叱咤されたものだが、最近は「ヤマトなでしこ」、「なでしこジャパン」などと勇ましい女の子が励まされている。明らかに魂を叱ったり励ましたりしているのだが、その魂の実体や性格がよく分からない。さらに分からないのが「良心」の存在。良心も魂に属するものと思うが、人間本来持ち合わせているものか後から育てられるものか、突然なくなったりするものかよく分からない。「良心の欠如」とか「良心のかけらもない」と聞くと実際はないのかなと思うし、凶悪犯が「良心の呵責に耐えかねて」自首するのを見ると、やはり誰にもあるのだと思う。鵺(ぬえ)の如く得体が知れなくなった日本人の魂をもう一度蘇らせ、アイデンティティを復活させるわけにはいかないものか、日々、考えさせられるのである。

大和魂

ヤマト魂とは和魂のこと。新渡戸稲造(にとべいなぞう)はThe Soul of Japan日本の精神といっている。新渡戸稲造の『武士道』を読めば、日本人ならイヤ日本人ではなくても武士道サムライに憧れてしまう。武士道の外国ファンにはルーズベルト、マハティール、李登輝(りとうき)からトム・クルーズまでいる。私もだいぶ年を経てから武士道ファンになったが、正確に言えば新渡戸稲造ファンだ。若い頃は『葉隠』(はがくれ)や『三島由紀夫』に関心を持っていたが、若気の至りからカッコつけていただけで、今にして思えばその頃の自分が恥ずかしい。矢内原忠雄訳『武士道』を読んで本来は武士道精神と軍国主義に何の関係もないことを知り、李登輝著『武士道解題』を読んで日本人の失った精神を知り、黒澤明監督『七人の侍』やトム・クルーズ主演監督『ザ・ラストサムライ』を観てアングロサクソンが畏敬する武士道精神を理解した。最近になって岬龍一郎訳『武士道』とくにその第16章、17章、解説を何度も読み直して新渡戸稲造ファンになったのである。敬虔なプロテスタントにして教養人の新渡戸稲造が、20世紀の幕開けと同時に日本人の精神『武士道』を英語で紹介したことは、アングロサクソンにどれほどの衝撃を与えたか想像に難くない。案の定、アングロサクソンのアジア侵略が始まるや、新渡戸が予想したとおり大和魂で武装した日本皇軍がアジアの解放を唱えて立ちはだかったではないか。その衝撃はルースベネディクト著『菊と刀』に詳しく書かれている。彼らがあらためて『Bushido』を読み直してみて、新渡戸稲造はじめ武士階級の人達が豪胆な精神のうちに高い倫理道徳観と深い知性教養を備えていたことを理解した。『聖書』をよく読みプロテスタンティズムを理解し、『資本論』をよく読み唯物思想や功利主義の脆弱性を洞察し、孔子孟子からシェークスピア、ゲーテ、カント、ニーチェ、ベーコン、カーライルほか古今東西の深い教養を身につけていて、とても野蛮な好戦民族とは思えないと悟った。それどころか亜細亜開放の大義のもと、武士道精神によって統率された360万の皇軍は、自力で開発生産した近代科学兵器で装備した恐るべき敵であった。挙国一致の総力戦で臨まなければ、帝政ロシアの二の舞を演ずることになろう、というルース・ベネディクトの指摘は現実のものになった。恐るべき大和魂、お見事日本皇軍。天皇の号令下、開戦時と終戦時に示した一糸乱れぬ日本皇軍の行動は、後世の歴史に輝かしい1ページを残すに違いない。そしてそのページには「アングロサクソン白色民族のアジア侵略に対し日本、朝鮮、台湾の極東黄色(おうしょく)三民族はアジアの解放を合言葉に勇敢に戦い、敗れはしたが結果的にアジアの独立という大戦果を勝ち取った」と書かれるに違いない。私なんかミッドウェー海戦に敗れたときに生まれ、戦渦の中を家族の足手まといとなっただけで兵役を務めたわけでもなく、戦後復興に尽力したわけでもない。戦後の平和と繁栄だけを享受させてもらって、親たち世代の労苦と辛酸に対して敬意と賞賛の念を抱くとも、ゆめ悪意や批判の念を抱くことはできない。その資格のかけらもない。ましてやすくに靖国に祀られた英霊や千鳥が淵に眠る戦争犠牲者に対しては、ただただ有難く申し訳ない気持ちでいっぱいだ。3歳2ヶ月で終戦を迎えた私は、幼心に戦争を記憶している。空襲警報を聞くや、柱の低い所に掛けてある小さな防空頭巾を被って「くうしゅう。くうしゅう。」と呟きながら向かいの郵便局の防空壕に走ったこと、家を飛び出した途端に頭上を血だらけになった人が担架で運ばれていくのを見たこと、など鮮明に思い出すことができる。昭和20年秋、父が南方の戦地から、家族がそれぞれ疎開先から東京に集結したとき東京は全くの焼け野原で新宿・池袋のガード下は傷痍軍人や浮浪児で溢れていた。母や上の姉は私を膝に座らせ「極東の小国日本はアジア解放のため、大国アメリカやイギリスはじめ世界を相手に勇敢に戦った。卑怯にも原爆を落とされて降参せざるを得なかったが、今度戦争になったらお前たちが勇敢に戦ってこの屈辱を雪いでくれ。」と語り聞かされたものだが、ひょっとすると武士道とは昔から女性の口伝によって語り継がれたものかもしれない。男の子なんて母親、姉妹、周囲の女たちに頼りにされたらひとたまりもない。爆弾抱えて敵艦に突撃するぐらい屁でもない。私の小・中学校の卒業文を読み直すと、完全にその気になって武者震いしているのが良く分かる。神代の時代から女性にとって男性は頼りになる存在でなければならなかったはずだ。平和な生活を持続するにも、子孫が繁栄するにも男たちが臆病者や卑怯者、馬鹿者であっては困るから女性は必死に身近な男の子に理想の男性教育をしたに違いない。新渡戸稲造が『武士道』序文で述べている如く、和魂すなわちヤマト魂は儒教や孔孟思想を源流に、武士階級の倫理道徳規範として形つくられ、やがて不文律として庶民の心に浸透して日本の精神となったと思われる。新渡戸自身、武士道精神は幼い頃から自然に教育されたもので、特に学校で学んだものではないと述べている。そして『武士道』を書こうと思ったきっかけは、外国人妻である夫人から絶えず質問されていたことに答えようとしたからだとも述べている。ひょっとすると大和魂は大和撫子たちが時間を掛けて育ててきた理想の男性像か。

西洋人の才能

長い鎖国政策を解いて開国した維新当時、世界に疎い日本人にとって欧米諸国の進歩発展には目を見張るものがあったのだろう。しかし実際は産業革命によって欧米諸国自身てんやわんやの大騒ぎで、農民職人などの大衆は実にいやな時代が来たと思っていたに違いない。資本主義による二極化が進んで新たな階級対立が生じ、歴史回転の波に乗れない敗組たちは傲慢不遜な勝組を苦々しく思っていたはずだ。敗組カール・マルクスは、悔しくて悔しくて毎日ロンドン図書館に閉じこもり「こんな社会は歴史の必然によって必ず崩壊するであろう」と弁証法を駆使してあの難解な『資本論』を書き上げてしまったぐらいだから。その後、敗組のマルクスが死んだ年に生まれた勝組のジョン・メイナード・ケインズは「下品で教養のない労働者階級には何の関心もない」とうそぶいて近代経済学の基礎となった『一般均衡理論』を書いて資本主義の発展を煽った。実際は混沌としていた欧米社会では歴史回転のエネルギーから次々と新しい人材が誕生していて、長い鎖国から目覚めた明治の日本人には西洋人の才能はまばゆいほど輝いていただろう。明治維新の勝組たちも大政奉還後は惨めな敗組や時代変化に対応できない庶民を放ったまま自分たちは<岩倉使節団>と称して二年近くも欧米視察旅行に出かけてしまったが、世界を見ずに若くして切腹させられた吉田松陰や暗殺された坂本竜馬は草葉の影でさぞ無念な思いであったろう。今まで洋才といえば中国古典を指していたものが、俄かに西洋の才能が脚光を浴びはじめた。近代科学の発達と産業革命によってもたらされた、煌びやかな社会変革の中味に民主、自由、平等、人権、博愛など若者を陶酔させるような蜜の味がふんだんに含まれていたのだ。未だ近代化には程遠かった時代に札幌農学校に学んだ新渡戸稲造や内村鑑三は、クラーク博士が残してくれたプロテスタンティズムの理念をしっかり吸収することができたことは幸運だった。なぜならばヨーロッパに大きな社会変革をもたらした原動力はルターの宗教改革にはじまるプロテスタンティズムにあったからで、新渡戸稲造にその基盤がなかったならば、あれほど豊かな洋才を身に付けることはできなかったと思われるし、あのような形で武士道を欧米に紹介することもできなかったに違いない。個人主義も民主主義も資本主義も、科学も芸術も文学も、近代を形作ったあらゆるものがプロテスタンティズムに支えられているとすれば、新渡戸稲造の洋才とはプロテスタンティズムを源流とする学問や教養にあったといえよう。

戦国武士道

近代の武士道を語る前に歴史を遡って考えてみる必要があるのではないか。武士は12世紀に源平の台頭によって力をつけて以来、全体の5%程度といわれる武士階級が日本社会のリーダーとして日本を形作り支配してきたものと思われる。その武士階級の倫理道徳や行動規範を支配してきたのが武士道思想ということになるが、この思想は武士以外の残り95%の人達にどの程度影響してきたのだろうか。あのように厳格な規律や思想を一般大衆が生活身上や理念として受け入れてきたとはとても考えられない。武士階級は支配階級として庶民大衆を統治しなければならない立場上、自らを戒める暗黙の掟をつくってきた。それが武士道思想とすれば、既にノーブレスオブリージュといわれる理念や精神をわきまえていたことが容易に想像できる。
奈良本辰也著『武士道の系譜』によれば、武士道は大きく三つの時代変遷を経てきている。武士道の起こりは武士が実権を持ち始めた源平の時代であり、戦国武士道の時代といわれている。領土や権力を守るために骨肉相食む絶えることのない争いの中に、武士達が世の無常と生きる不安を仏の慈悲に求めたことは当然と思われる。平家物語には武士の哀愁が切々と語られ、涙なくして琵琶法師の語りを聴くことはできない。武家という家系に生まれ武士という身分階級を継承しなければならない我が身、我が人生を如何に考えるか。
武家の若者にとってその悩みはハムレットどころではない。熊谷直実(くまがいなおざね)のごとき働き盛りの武士にとっても、若い敦盛(あつもり)の首を取らざるを得なかった苦悩はベトナム帰還兵以上であったろう。『源平絵巻』を見ると戦争をするのに何故あれほどまで煌びやかに装うのか不思議に思えるが、死の美学に支えられた死装束であったと考えるならば納得いくではないか。武士が戦国時代を生き抜くことは死ぬことよりもずっと苦しく辛かったのかもしれない。闘うことや命のやり取りを宿命づけられた武士が、死ぬも生きるも徹底してそこに意義や美意識を求めたとしてもおかしくない。惻隠(そくいん)の情などという高度な人間感覚は、自らを極限まで追い詰めたものに初めて宿すもので、元寇の役に蒙古軍の大多数を占めた南宋兵が祖国を失った捕囚であったことに限りない惻隠の情を示したことにも、戦国武士道の性格や心情が如実に現れている。
政権が安定し地位身分が保証されてくると、封建制度の秩序を維持しようとする考えが強く働き、家督の安泰、所領の治安、幕府の権威を守ろうとする。武士道は次第に武から文へと移行し、武勇を誇るより忠誠を誓うほうが身のためになるから、倫理道徳規範を重視する性格が強くなってきたのであろう。平和な時代にあっては、武功をあげて出世のチャンスを掴むことは難しくなり、ひたすら先祖の武功を名誉として、主君の恩顧に忠誠を誓うことで地位身分の安泰を図ろうとするのは当然であろう。しかし、如何なる時代も平和や安定は長く続かない。やがて秩序や制度に腐敗やほころびが生じ、人心が乱れ始める。人心の乱れはいろいろな事件を引き起こし、やがて動乱に発展して世の乱れとなる。如何に忠誠を誓おうと如何に文武を磨こうと、出世の望みが持てぬものはやがて不満分子となって、ついには反乱分子となる。反乱は下克上となり群雄割拠して戦乱の世となる。武功を立てることによって出世のチャンスが訪れ、有能な武人を集めて勢力を拡大し、領土を拡張できるようになると武士の倫理道徳規範は後退し、功利主義が頭をもたげてくる。
信長や秀吉にいかほどの武士道精神や倫理道徳規範があったか疑わしい。功利主義の前に武士道精神は死んだのかといえばそうではない。千利休の禅思想に帰依した武士や、キリスト教に改宗したキリシタン大名の出現など戦国の時代にあって、武士道に大きな革命が起きたことが分かる。ひょっとするとこの時代こそ、武士道の黄金時代なのかもしれない。源平盛衰記を彷彿させる武士道精神や武士の美学を散見し、乱世であったからこそ武士道は一層輝いたとも思われる。高山右近(たかやまうこん)や細川忠興(ほそかわただおき)らが千利休と乱世に交わした清廉な信義。山中鹿之助(やまなかしかのすけ)が七難八苦を乗越えて尼子党(あまごとう)に示した忠義。大谷吉継(おおたによしつぐ)島左近(しまさこん)が関が原の合戦で討ち死にして石田三成に返した恩義。鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が命を懸けて落城寸前の味方衆に示した律義。上杉謙信が宿敵武田信玄に塩を送って示した仁義など、後世の武士道に大きな影響を与える出来事を数多く残した。

葉隠武士道

関が原の合戦、大阪の陣に勝利した徳川家康は江戸に幕府を開いて長期安定政権を目指すべく制度改革を行なった。武士を頂点とする身分制度の確立と、反逆を許さない封建制度の確立によって政権基盤を固めた。戦乱が収まれば勇猛果敢な武官は必要なくなり清廉潔白な文官をより多く必要とする。そうなれば文官としてのあるべき姿や倫理道徳規範を求めて儒教思想がより強く影響するのは当然である。信義に厚く清貧に甘んじて庶民の鑑となるような官僚役人なら、最上位の地位身分を与えて支配してもらった方が安心して暮らせると判断するのは、大衆庶民の本能的な心理であろう。武士道精神は見事に権力と大衆の期待に応えたと考えたい。その根拠は歴史上めずらしい長期安定政権と天下泰平の世が続いたことにある。天下泰平の時代にあって武士道は四書五経(ししょごきょう)や陽明学を学んで極めてお行儀よく育っていったが、武道を捨てたのでは本末転倒になるので剣術は盛んに行なったのであろう。しかし泰平の世に、なぜ突如として葉隠思想など過激な思想が生まれたのか疑問に思うが、『葉隠聞書』(はがくれもんじょ)をよく読むとどこにも山本常朝(やまもとじょうちょう)に過激な思想は窺えない。どうやら後世、特に戦時体制に国民を煽るため、戦争推進派や軍部の一部が曲解して利用したように思える。「武士は死ぬことと見付けたり」という過激な言葉だけが独り歩きして、本当は「サラリーマン出世訓戒集」のようで実は内容的にいささか退屈なのである。
それに較べると宮本武蔵はうんと哀れだ。立身出世を夢見て剣の腕を磨き、関が原に出陣して武功を上げるつもりが選択を間違って西軍についてしまったのか、どさくさに出世のチャンスを逃してしまった。時代はどんどん武人を必要としなくなり、出世はおろか就職の当てもなく無宿の失業軍人となってしまったのである。武者修行という名目の道場荒らしを繰り返すうちに、次から次へと仇討ちに追われる身となり、エンドレスの人斬り人生を歩まざるを得なくなってしまった。悲しいかな負けたときは人生の終わりであり、生きる限り殺生を続けなければならない我が身を、武蔵はどれほど憂いたであろうか。最後となった巌流島の決闘では、どう考えても身分格式ともに数段上位の佐々木小次郎が対戦相手となり、そのうえ小次郎は名うての長尺の名手ときている。ここで逃げては一生を棒に振るし、勝てば晴れて日本一の剣豪に君臨できるかもしれない。おそらく武蔵は「勝」の一字に全知全能を傾けて、まさに命懸けの作戦を立てたと思われる。詮索すると、武蔵は名誉も誇りも正義もかなぐり捨てて、相手より一尺でも長めの長尺を使う以外に必勝はないと判断したようだ。真剣勝負の場に、まさか棒切れを持って現れるとは誰が予想しよう。武蔵には小次郎の刀の長さは分かっていたから、それより一尺長い棒切れを使えば勝てる。しかし事前に悟られては勝ち目がないから、舟の上で櫓を削り誰にも見られぬよう海岸から姿を現した。小次郎に棒切れの長さを悟られたらオシマイという究極作戦は、悟られる前に一撃で倒さなければならない。小次郎の方は間違いなく平常心を失っていただろう。散々待たされてイライラしているところに、真剣勝負の場に棒切れを携えて来るとは武士の風上にも置けぬ無礼千万な奴。「この恥知らずめ、渾身のツバメ返しで一刀のもとに切り捨ててくれよう」と思ったとすれば、ここで勝負あった。武蔵の作戦勝ち。リーチの長い相手から必殺カウンターパンチを喰らえば、ランキング一位のカミソリパンチといえどもひとたまりもない。「卑怯者め!」まさにこの言葉が小次郎最期の絶句となってしまった。武蔵は堂々というより、そそくさと巌流島から海路姿を消した。小次郎のツバメ返しは空を切ったかに見えるが、実は武蔵の心に大きな深手を負わせたのではないか。このとき武蔵29歳。勝手な想像に耽りながら『五輪書』(ごりんのしょ)を読むと、武蔵の哀しい武士道を垣間見るようで胸が詰まる。哀れ不運の戦国武士。この後30年、武蔵の心は決して晴れることなく、還暦を迎えた病身を最悪の環境に置き、最後の力を振り絞って初めて筆を執り『五輪書』を遺した。13歳で新当流(しんとうりゅう)有馬喜兵衛を倒して以来30歳まで60戦無敗を誇りながら、人生そのものに誇りも喜びも持てなかった武蔵の心境は、兵法を越えて人の倫(みち)を語っている。絶筆となった自省自戒の書『独行道』(どっこうどう)は、まさに武蔵の心境を物語って余りある。こうして戦国武士道の晴舞台は消滅し、泰平の世にあわせて儒学や陽明学を導入した役人の倫理道徳規範「葉隠武士道」へと姿を変えていったと考えられる。

明治維新とBushido

退屈で変わり映えしない泰平の世になって、長期政権内部はかなりの腐臭を発していたに違いない。それを象徴するように「忠臣蔵」事件の15年後、寝ぼけ眼の武士道に喝を入れるように著された『葉隠』ではあるが、死に狂いに奉公するような世の中ではなかったことは想像に難くない。その証拠に大塩平八郎が天保の大飢饉に、難民を苦しめる悪徳商人や徳川幕府に怒りを覚え、武士道精神を発揮して正義の乱を起こすまで、『葉隠』から実に120年も経っているからである。大塩平八郎の乱に目覚めたのかその後、脱藩浪士たちが葉隠武士となって続々と上京してくることになるが、武士道は決して死んだわけではなく時を待っていたとしか思えない。憂国の武士道は倒幕思想となり攘夷論となって怒りをあらわにする。幕末の騒乱は眠れる武士道の目覚めであり、憂国葉隠武士の怒りの行動と考えられないだろうか。火の手はお膝元の鍋島藩には上がらずに近隣の薩摩、長州、土佐藩に上がったところがおもしろい。武士道は仏教、儒教だろうが陽明学だろうが、洋才をどんどん受け入れる知性と器量をもっているから、欧米列強恐るに足ると判断するや、攘夷を捨てて開国し条約を結んで近代文明の導入を積極的に図っているから強かだ。東洋思想を和魂とし、西洋文明を洋才として新たな武士道を構築するとは何という柔軟さだろう。そんな時代を背景に新渡戸武士道は誕生する。新渡戸稲造も同級生の内村鑑三(うちむらかんぞう)も「武士道という幹にキリスト教プロテスタンティズムを接木した信仰」と告白しているように、20世紀に入ってからの武士道はキリスト教の影響を大きく受けたと考えるべきだ。もっとも戦国動乱の真っ最中にフランシスコ・ザビエルがキリスト教宣教に日本を訪れ多くの戦国武将や庶民をキリシタンに改宗させているから、16世紀には既にその下地ができていたと考えるべきだろう。新渡戸も内村も英語で著作を著し、ホワイト・アングロサクソンの世界支配に対して極東アジアを甘く見るなと牽制しているようにも思える。明治維新によって武士階級はなくなり、四民平等の社会を迎えて国民全てに武士道精神を持てと激励しているとも思える。福沢諭吉は『学問のすすめ』を著し、四民平等の社会を迎えて誰でも勉強すれば出世できると激励した。和魂とは武士道、洋才とは学問を指すことは間違いない。武士道は既に日本神道に仏教禅思想、儒学儒教思想を加えて東洋グローバル思想として完成し、そこにプロテスタントの新渡戸稲造が西欧のキリスト思想を注入することによって、より完成度を高めたのである。
江戸の泰平期にすっかり倦んでしまった武士道精神は、幕末に鬱憤を晴らすように爆発し新渡戸や福沢の励ましに応えるように明治新政府の殖産興業、富国強兵策に乗っていく。明治天皇の下、欧米の指導者を迎え入れ、教育を徹底して僅か30年で帝政ロシアと大陸の覇権を争うまでに成長してしまった。和魂洋才として成長した武士道は、グローバル思想として白人絶対優位の世界に躍り出てストップザホワイトの気概を示したのである。最初に英語で書かれた武士道は『Bushido』となって英米にリリースされ、その後各国語に翻訳されて世界に広まった。だから新渡部武士道は「Bushido」として仏教、儒教にキリスト教が融合したグローバル思想として捉えるほうが遥かに理解しやすい。

「Bushido」とゴルフ

日本の武士道は新渡戸稲造によって世界に紹介され、グローバル思想「Bushido」に進化したと考えられる。武士道=Bushidoと思ったら大間違いで、柔道=Judoと信じて長期低迷に苦しんだ日本柔道と同じ轍を踏む恐れがある。外国人は母国語で『Bushido』を読み『Bible』を参照しているのである。『仏教』『儒教』、『平家物語』、『葉隠』はじめ武士道に関連する本は余り読んでいないだろう。だから日本人が理解している『武士道』と外国人が理解している『Bushido』は違うと考えなければならない。私たちですら『武士道』序章、十六章、十七章、岬龍一郎著『武士道』解説を何度も何度も読み直し、新渡戸稲造も内村鑑三も武士階級のプロテスタントであることを充分に考慮して、外国人が理解した『Bushido』とはどのようなものか考えてみる必要がある。いま考えられることはキリスト洗礼を受けてアメリカに渡った新渡戸も内村も、プロテスタントとして外国から日本や武士道の優れた点を評価していることで、日本で暮らす私たちが見落としていること、見えなかったことが数多くあるはずだ。その意味で魂やアイデンティティを見失った私たち日本人が、もう一度自分達を取り戻すためにグローバル思想となった「Bushido」を学び直し、ふるさとの大地にしっかりと魂の根を張ることこそ大切ではないか。戦後の日本人が愛好した三大スポーツに野球・サッカー・ゴルフがあるが、他のあらゆるスポーツと比較するとゴルフだけは性格が全く異なる。スポーツというには余りにも運動量が少なく、逆に思想や科学の領域がとてつもなく深く広いのである。そのうえ勝負よりも倫理道徳を重視し、厳しい自律精神や正義観念を要求してくるのである。武士道が剣術によって鍛えられた如くBushidoはGolfによって鍛えられるのではないか、と考えるようになった根拠である。現代社会とくに日本の教育環境は精神を鍛え人格を形成するに余りにも脆弱である。正義とは何か、正義感は如何に養われるかについて誰もまともに答えられない社会が、かつてあっただろうか。「弱肉強食」「優勝劣敗」「勝者金満」「敗者難民」を地でいく利己主義、功利主義、拝金主義がかくも徹底した社会で、かつて長く繁栄した例があっただろうか。子供やスポーツの社会にまで、このような思想が蔓延した今の社会風潮の中で、ゴルフだけが反旗を翻し時代に流されない伝統思想を維持できるかもしれない。ゴルフと武士道が歴史的出会いを果たすことによって、ゴルフの本質から人間の根幹に触れることができるなら、こんな素晴らしいことはない。