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HOLY GOLF BUSHIDO
-  神 聖 ゴ ル フ 武 士 道  -
新和魂洋才のすすめ
日本の伝統精神 + 英国の伝統文化
第9章 忠誠と友好

武士の忠誠

新渡戸稲造『武士道』はこの章を忠義という標題で書き進めている。「封建道徳の多くの徳目は、別の倫理体系や異なった階級の人々とも共有しているが、忠義という徳、即ち主君に対する服従や忠義の義務だけは独立した特色を示している。私は個人的な忠誠が、あらゆる種類の人々や境遇においても存在する道徳的な結びつきであることを承知している。」と述べてスリの一味でも親分に忠誠を捧げることがあるという。今日においても任侠の世界で子分が親分に捧げる忠誠と、親分が子分に示す愛情は『国定忠治』などに代表される如く新国劇や娯楽映画の題材になるほどあることは私たちも承知している。さらに新渡戸は「私たち日本人が抱く忠義の観念は、他の国ではほとんどその賛成者を得られないであろう。それは私たちの観念が間違っているからではなく、今や他の国では忠義が忘れ去られたり、他の如何なる国も到達できなかった高さまで日本人が発達させたからである。」と言って日本人の固有の観念としている。また主君や恩人のために親が子の一命を犠牲にしたり、子も親孝行のために喜んで命を捨てた例を挙げ、これは旧約聖書に出てくるアブラハムが息子イサクを神に捧げようとしたのと同じくらい意義深いものだとも述べている。もともと騎士道によらず武士道によらず主君に対する忠誠が命だから、封建制度の下では当然の観念と思うが、封建制度が崩壊してからは忠誠の対象を失ってダッチロールしてしまったのは仕方のないことであろう。騎士道の場合には忠誠の対象を神や主イエスキリストに変えることができた。ならば武士道は明治維新によって封建制度が崩壊し、直ちに忠誠の対象を天皇に切り替えることができたのであろうか。乃木将軍は明らかに明治天皇に対する忠義の証として見事な最期を遂げている。今次大戦においても天皇や祖国に忠義を捧げたものは数多くあり、靖国神社に行けばその証の前に頭が下がる。
新渡戸は忠義の観念が日本人固有のものとしながらも、ドイツ人ビスマルクの例を挙げて彼が「忠誠心はドイツ人の美徳」といって誇りにしていたとも述べている。新渡戸は知る由もないが、スピルバーグ監督『プライベートライアン』他戦後のアメリカ戦争映画には合衆国や星条旗に忠誠を誓う話は沢山ある。だから忠義や忠誠は封建社会固有のものではなく、時代により社会により形を変えて現れる人間の本質かもしれない。

ゴルファーの忠誠

ゴルフの世界に話を移すならば、ゴルフにも固有の忠誠の姿がある。米国ではよく「ゴルフによって得たものは全てゴルフに返せ」という言葉を耳にする。どういう意味か正確には解釈できないが、ゴルフそのものに対して忠義であれという意味にも捉えられるし、ゴルフから暴利をむさぼるなとか、ゴルフを功利主義の手段にするなとも解釈できる。それほどまでにゴルフの本質は精錬潔白であり、妥協を許さない厳しさが窺える。武士道には命懸けの忠誠忠義があったが、ゴルフにも生涯をかけた忠誠忠義の姿があるように思える。忠誠や忠義という意味は、決して裏切ることのない誠実な信条や姿勢をいっているのであって、そこに曖昧な信条や融通無碍な姿勢は全く窺えない。その頑なとも思える信条や姿勢は随所に見られる。例えば「あるがままの状況維持」、「ニアレストポイントの条件」、「OBラインの判定基準」など、ゴルフ規則の随所に厳格な規定が設けられ、ゴルファーもたかがゴルフと思わず、忠実にルールに従おうとする。それはルールだけではなくゴルファー同士の間にも存在していて、例えば「プレーの約束を守る」、「スタート時間を守る」、「スコアをごまかさない」、「自分に有利な審判をしない」など、その場限りの忠誠忠義ではなく人間同士の道徳的関係にまで及んでいる。たかがゴルフとタカをくくって人間の本質や品性を疑われた人は実に多い。ゴルフというスポーツゲームがゴルフそのものに対して如何に忠実であるかは、他のスポーツと比較すればすぐ分かる。勝負を争う競技ならば「相手を脅かす」、「ファインプレーを阻む」、「裏をかいて騙す」、「意地悪をする」、「審判の目をごまかす」行為は当たり前で、そこに忠誠忠義などという姿は微塵も見られない。
あらゆるスポーツに友好親善試合があるが、果たして人間の道徳的関係において友好親善が構築できるものか甚だ疑問に感じる。どんなに美辞麗句を並べようが、スポーツの本質は非情のうちに優勝劣敗を競って人間が争う行為であり、友好だの親善が芽生え難い状況の中に成立している。だからプレーヤー同士には親善友好が成立しなくとも、国家間や組織間に成立すれば、目的は達成するからスポーツによって盛んに友好親善試合が行われるのであろう。

ゴルフと友好

しかし、国家の要人同士や企業のトップ同士がゴルフ以外のスポーツで果たして友好や親善が図れるだろうか。中国国家主席と日本総理がテコンドーの試合をしたらどうなるか。ロシア大統領と日本総理が柔道勝負をしてみたら。ビルゲイツと孫正義のボクシング試合は如何に。いずれも友好親善は期待できない。ゴルフがなぜ友好親善に役立つかと言えば、ゴルフの基本精神が優劣や強弱を争うことではなく、誠実、正直、寛容、惻隠、礼節を示し合うことにあるからである。国家も企業も人間も絶えず利害が対立する狭間にある。俄かに友好を築こうとしても、親善を図ろうとしても所詮は腹の探りあいに終るか、言葉だけに終ることが多い。ゴルフは4時間共に過ごすことによって、お互いが自我を晒し人間性を理解しあえる。しかし決定的に裏目が出ることもあるから恐ろしい面もある。ずるい、嘘つき、卑怯、身勝手、無作法、傲慢、せっかち、愚図、臆病など普段見ることができない悪い性格もさらけ出してしまうからである。「ゴルフほど性格が現れるスポーツはない。しかも最悪の形で。」といわれる。性善説、性悪説があるように確かに人間には良い部分も悪い部分もあるが、悲しいかな善なる部分は探さなければ見つからず、不善なる部分は見まいとして見えてしまう。聖書は「人はキリストによって生まれ変わらなければ決して清くならない。」という。確かにそうかもしれないが、人は昔から「清くなろう正しくあろう」という涙ぐましい努力もしてきた。その努力の連続ないし集積のひとつに武士道がある。 同時にゴルファーたちも、その涙ぐましい努力をしてきた。武士道が主君に忠誠を誓ったように、ゴルファーもゴルフに忠誠を誓ってきたが、ゴルファーたちがゴルフに対して真摯に取り組む姿勢は正直、誠実、礼節、謙虚と清く正しくあろうとする姿そのものである。